玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

このブログの内容はすべてフィクションです

正しくなくてもいい

▼コロコロという、棒にロールペーパーが付いた掃除道具がある。あれは実にいいものなんじゃないか。徹底的に掃除をするなら、拭き掃除や掃除機には及ばない。でも手軽にできるのと、なにより成果物が目に見えるのがいい。

掃除した人間は、コロコロに付いたゴミを見ながら「うわー!汚い!」と悲鳴を上げることができる。これは喜びの悲鳴だ。成果物が確認できるという大きな喜び。とても人間心理をわかった商品なのだと思う。わたしはコロコロのような人になりたい。

また適当なことを。

▼友人夫婦の家にお邪魔。友人夫婦の子ター坊(小学校4年)と話す。先日、大雪が降って電車が止まった。だが、打ち合わせに行かねばならず本当に大変だったという話をした。

ター坊は、ゆるゆると首を振り、
「模範囚だね」
と、つぶやいた。おお、しゃれたことを‥‥。大雪だというのに打ち合わせを断ることもできず、何時間もかけて出向き、行ってみたら15分もかからず終わり「帰っていい」と冷たく突き放される。じゃあ、今日無理して来なくても良かったじゃんかあ!と言いたいが、そんなことは言えない。にこやかに振舞った。仕事という牢獄に捕えられた囚人である。これが模範囚でなくて、なんであろうか。

ター坊の気の効いた言葉に感心していた。
ター坊は、不思議そうな顔をして、
「だから~、今日、ご飯一緒に食べる?」
と訊いた。わたしが「模範囚だね」と聞き間違えたのは「ご飯一緒に食べる?」だったのだ。
「モハンシュウダネ」
ゴハンイッショニタベル」
似ていないこともない。ああ、わたしの感動を返してほしい。だいたい、あのター坊がそんな気の効いたことを言うはずがない。気の効いたことを言わないために生まれてきた男、それがター坊じゃないか。知らんけど。

あと、わたしは老化だと思います。耳がおかしい。模範囚が書く日記、今後も何卒よろしくお願いいたします。

▼映画の感想を書いておりますと、たまにすごく褒められたり、逆にすごく怒られたりする。褒められたメールは何度も読み返し、大量にコピーを作って窓からばら撒いて逮捕されたりするからいいものの、怒られたほうのメールはだいたい読んでる途中で削除する。都合の悪いことはなかったことにして生きていこうという運営方針であるよ。

で、怒られた文面で多いのが「解釈が正しくない」というものなんですね。これがけっこう驚きだった。正しくなければ駄目だったのかという。「正しくない」という指摘には「そうですね」としか言いようがない。

仮に正しいものがあるなら、公式サイトに載っている解釈か、監督のインタビューが正しいことになるのかもしれない。ただ、公式サイトに載っていても正しいとも限らない。インタビューも、その場で思いついて、かっこいいからと適当に言ったことかもしれない。雑誌に書かれた批評が良かったから、その批評をそのまま使ってしまうこともあるだろう。そこまで疑い出すときりがないけども。

で、正しいものは、しかるべき場所に載るのだから、正しくないものを書くほうがいいんじゃないか。正しい解釈が一つでそれ以外を許さないというのも窮屈だ。天井の染みを見て、それが何に見えるのかというのは人それぞれでしかない。「コロコロで掃除をする男」に見えても「雪かきをする模範囚」に見えても、それぞれ正しい。

だから「正しくない」というメールには「そうですよね」と返すことになる。そうすると「正しくないから直したほうがいいです」と返ってくることがある。これが「バカ」とか「死ね」なら「おまえが死ね、バーカバーカ!」という大人の対応が取れるものの、わりと丁寧に言ってくる人がいる。

そうすると「正しくなくてもいい」みたいなことを書くしかない。こだわりのラーメン屋の壁に、あいだみつをもどきが書くようなことを書いている。ヘタウマ文字で、それっぽく書いている。そのたとえ、またどこかから怒られるから、やめとこか。基本的には、わたしは銃を突きつけられて、書きたくもないことを書いているし、これはわたしの意思でもなんでもないんだから怒んないでねと、それだけを申し上げたくて今日はここまでやってまいりました。
JUGEMテーマ:日記・一般