玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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印象 内田百間(門構えに月)

▼出先で初めて入った床屋で風俗の話をされた。その晩遅くにタクシーに乗ったら、そこでも運転手から風俗の話をされた。風俗の話をされることについてはどうでもいい。だが、その日に初めて会った二人の人間から風俗の話をされるとはどういうことだろう。

床屋もタクシーもサービスのプロである。二人のプロが観察した結果、「こいつは風俗によく行きそう」そう思ってるから、風俗の話をするってことじゃんかあ!そんなバカな。わたしから滲み出るいかがわしい雰囲気があるのか。わたし、風俗顔なのだろうか。フー顔なのだろうか。フー顔ってなに。人生ってなに。そんなもん知るか、バカー!

フー顔であるという事実に落ち込んだ。翌日、お世話になっている会社に行った。隣席のTさんと目が合った。彼女もわたしが風俗に行っていると思っているのだろうか。行っていない。冤罪じゃないか。損をしている。むしろ行っていないのに行ったと思われてるなら、行くべきじゃないか。行くことで冤罪ではなくなる。ん、何かよくわからなくなってまいりましたが。

とにかく、ここは先手を打って「行っていない」と主張すべきではないかと思った。

わたし:最近、夜はどこへも行ってないんですよ。

Tさん:え?あ、そうなんですか。


わ:そう!帰ってすぐ寝るしね。そういえばここ最近、まったく出かけてないなー。

T:ふーん。たまには出たほうがいいんじゃない?


わ:いや、出かけないね!すぐ寝る!扉を開けたら布団が敷いてあって二秒で寝る。

T:な、なに?どうしたの?好きにすればいいと思うけど。

わ:すぐ寝るね!まったく外に出ないし監禁されてもちっとも困らない。

T:わかったけどお‥‥。なに言ってんの?

どうでしょうか。この未然に疑問の芽を摘む姿勢。さすが、デキるビジネスパーソンは違いますなあ!ちょっと挙動不審な言動をしてしまったが、ふと一つの可能性に気づいた。ひょっとして、わたしに何か問題があるのではなく、偶然出会った床屋とタクシーの運転手が単なる風俗好きだったのではないか。間違いない。なぜそう思わなかったのだろう。あいつら、許さんぞお!

思い込みがすさまじくて人生を間違える人、をお送りしました。まっとうに生きたい。

漱石の門人で内田百間(門構えに月)という人がいる。どこかおかしみのある随筆が有名だが、ごくたまにとても内省的な文章を書く。自分が何気なくやったことについて執拗なまでに掘り下げて考える。

百間の知人が亡くなったとき、百間は旅行中だった。旅行から戻り、故人の家に弔問に訪れる。奥さんと子供がいて、奥さんにお悔やみの言葉を述べる。帰り道、お悔やみなど述べに行くべきではなかったと落ち込む。

せっかく葬儀から時間もたち少し落ち着いた頃だというのに、再び悲しみを思い出させてしまったのではないか。無礼をしたならいざ知らず、遺族も弔問に来てくれた相手を恨むこともできまいと心配する。自分がわざわざ故人の家を訪れるというのは、自分は不義理をしない人間であるということを自分の心に証明するためにやったのではないかと悩む。

ふつうの人間は自分が他人からどう見られるか、そこまでは気にする。自分が自分をどう見るか、そこから生じた自分勝手な(世間では百間の行為は自分勝手とは見做されないが)行為を厳しく見つめている。善意だったら人を傷つけてもかまわない、そう思ったならば、それは傲慢さに繋がる。

百間のように考えると生きづらくて仕方がないものの、それでも物事を厳しく見つめ続ける冷たさは持っていないといけないように感じた。

友人夫婦の子ター坊(小学校4年)が、読書感想文の宿題に何を書いたらいいかわからないというので、最近読んだ百間について感想を述べた。わたしの感想を聞いた後、ター坊が首をかしげて言ったのは「ひゃっけんて、人の名前?」ということである。すべてわたしが悪い。