玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

このブログの内容はすべてフィクションです

鯨ちゃん

▼友人夫婦の子ター坊(小学校4年)に会う。なにやら銃のような物を持っていて、会うなり「手を挙げろ」と言われる。面倒なので右手だけ挙げて応えると「そうじゃないでしょ。こうでしょ、こう!」と、わたしに銃を預けて万歳のポーズをする。銃を突きつけて「手を挙げろ」と言いました。もう挙げてるけど。

こういう人と一緒に銀行強盗はできないなあと思います。犯罪者としての資質に欠ける。

▼知り合いからホエールウォッチングに行ったという話を聞く。彼は鯨を観て捕鯨反対派の気持ちがちょっとわかったと言っていた。その話で思い出したが、以前に捕鯨反対運動について日記に書いたことがあった。3年前のもので、今読み返してみると、なんていうんでしょうかね、若いな!張り切ってるな!としか言えん。恥ずかしいよ。

あれを書いたのは本当にわたしなのだろうか。細胞は日々刻々と入れ替わっているのであって、三年前のわたしは今のわたしとまったく違う他人と主張しても問題はないんじゃないか。あれは他人だと思います。

今なら少しだけ冷静に捕鯨賛成派と反対派がわかりあえない理由が説明できると思う。わたしは正直なところ、賛成か反対かというより、そもそも鯨についてわかってない。というのも鯨を食べないからである。食べないというのは信念ではなく、売っているのを見かけないのだ。食べない人間にとっては「食べる人もいるのだな」という認識しかないし、「食べる文化を尊重しなければならない」としか思っていない。

これが鯨ではなく、魚全般や牛、豚などに置き替えてみると「食べないわけにはいかない」となる。ずっと食べてきたし、これからも食べるだろう。おいしいし。おいしいは正義だ。

じゃあ反対派の主張はというと、鯨は賢いし、かわいいから食べちゃ駄目となる。これがね、わかりそうでわかってなかった。わたしにとって鯨はそんなにかわいくないというのがある。鯨を、わたしが愛してやまない猫に置き替えてみる。

「猫は食べちゃいかんでしょうよ!」って、なる。だって、あいつらかわいいじゃないか!これが捕鯨反対派の主張なのではないか。裏から金が流れてるとか、そんなのはよくわからないし置いておくとしても、かわいいは正義だ。それで十分なのだ。「猫の虐殺をくいとめよう」といえば、よその国の船に向かってボウガン撃ったり、薬品投げたりというのも理解できる。やっていいかといえば、駄目なんですけど。

「おいしいは正義」VS「かわいいは正義」で、正義と正義の間に起きた対立は解決しないものである。捕鯨賛成派が持ち出す「鯨の量は減ってないから獲って良い」というまっとうな理屈など通用するはずがない。だって「かわいいから殺すな」というのが反対派なのだから、鯨の増減なんてそもそもどうでもいいことなのだ。これは議論がかみあうはずがない。

議論の前提として「他者の文化は尊重しなければならない」という理屈があるが、感情の前に理屈などは吹き飛んでしまう。問題が理屈や利益ならば解決の糸口が見えるかもしれないが、感情であるならば解決は難しい。好き嫌いぐらい難しい問題はない。
JUGEMテーマ:日記・一般