玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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名前

▼最近、名前についての本を読んでいる。そうすると「本当の名前を知られてはならない」とか「呼ばれてはならない」という記述を目にする。これは日本だけの話ではないのだろう。ハリー・ポッターゲド戦記でも、名前が特別な役割を果たしている。なぜだろうか。

日本でも、直接名前を呼ぶことを避ける文化はある。それは天皇や将軍、皇族という特別な身分だけではなく、会社の役職でもそうだ。社長をよぶときに、社長の苗字が山田だとすると「山田さん」と呼ぶだろうか。ほぼ間違いなく「社長」と呼んでいる。社長と対等な地位の人であれば山田さんと呼ぶかもしれないが。

「社長のことは『山田さん』ではなく社長と呼べ」という教育は特に受けず、ごく自然に呼んでいるように思う。誰から言われたわけでもないのに、なぜわたしたちは無意識にこういった行動を取るのだろう。なんとなく失礼だという思いは、どこからくるのか。

年始に会社でお祓いをしてもらう。その際、神主さんが祝詞(のりと)を読む。何を言っているかまったくわからないのだけど、会社名と住所の部分は聴き取れる。神様も会社名と住所がないと来れないのだろう。郵便局とあまりかわらない。なんなのだ、そのルールは。サンタさんのほうが優秀だ。

これは仕様の問題なのだろう。電話をかけるときには電話番号、手紙を送るには住所氏名が必要なように、昔の人は呪いをかけるときに名前が必要と考えたのかもしれない。それが本当の名前を人前では言わないという文化に繋がっている気がする。

丑の刻参りに必要な道具を調べてみると「藁人形に呪いたい相手の体の一部(毛髪、血、皮膚など)や写真、名前を書いた紙」(wikipedia)とある。やはり名前というのが、当時は呪いを配達するのに必要な仕様と考えられていたのだろう。

呪いは現代人には効果はないだろうが、当時の人にはあったのかもしれない。藁人形に釘が打ち込まれ、そこに自分の名前が書いてあるのを目にすれば相当な衝撃を受ける。また、本人が直接目にしなくても、噂で本人の耳に入る可能性は大いにある。

呪いを信じていない現代人にはどうでもいいが、信じている人間ならショックで死んでしまうかもしれない。そうなれば、呪いのせいだという噂が広まり、より呪いは効果を持つことになるだろう。

名前を知られることを避けるのは、名前が呪いにつかわれると困るという名残が、わたしたちの心に熾き火のようにくすぶっているのだろうか。科学が呪いを殺した現代では、呪いの効果などは信じないから名前を呼んでもいいことになる。わたしがお世話になっている会社の社長のことを「よしお」と呼んでもまったく問題ないのである。「よしお、100円上げるから肩を揉んでくれ」といってもいいのである。孫ではない。契約を切られる。
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