玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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「人は40になったら自分の顔に責任をとらなければならない」

▼たまに耳にすることはある言葉だけど根拠はよくわからない。だがよくわからないにしろ「なんとなくそうかも」と思わせられるものがある。生き方は顔に出るのか。

知り合いの家の飼い猫はとても穏やかな顔をしている。一方、野良というのはどこか険しくて鋭い面を持っている印象がある。やはり生き方のせいか、たんに痩せているから鋭く見えるだけなのか。ではエサをたっぷりもらって福々しい野良はどうなのか。

本当に生き方が顔に出るなら、顔の悪い人間はみな犯罪者ということになってしまう。悪役をやる人はみな悪い人ということになる。そういうことはない。その人なりの良い顔ということだろう。内面の充実がふとした瞬間、たとえば仕事に打ち込んでいるときなどにそれが現れたりする。

この言葉は、40歳にして一応の人間的完成をしていなければならないという意味なのだろうか。孔子の「四十にして惑わず」という言葉も、それをうかがわせる。

お世話になっている会社の休憩所でボーっとしてると、部長がやってきた。部長は42だか45だか、50手前だっけ?興味がないのでわからないがとにかく40は越えている。雑談中、部長にこの「顔の責任」の話をしたら自信満々に「俺はどうだ?」と訊く。しげしげと顔を眺めた。責任どころか袖の下をもらってそうである。

「死ぬまで権力を渡さない独裁者みたいな顔」と答えてる途中に首を絞められた。ちょっとふざけただけなのに!

おまけにいつもの「もう仕事やらねぇぞ」というセリフが出た。これは革命を起こすしかない。やつを打倒してこの国に民主主義を!と思いましたが部長の権力は強大なので、わたしが刑務所に行くと思います。

わたしは40までまだ何年か猶予があるものの到底責任ある顔はしていない。今日はちょっと責任ある顔をして過ごしてみたが、隣席のTさんからは「お腹痛いんですか?」と訊かれた。どうも40になっても駄目そう。

ちょっと対策を考えてみた。40になって責任を問われたらどうしよう。今のままだと確実に無責任である。無責任で投獄される。かといって整形は怖いし、整形でどうにかなる顔でもない。しかし今から内面が充実することはない。何かうまい言い訳を考えねばなるまい。

わたしが40になり「顔の責任」の話をしてくる人がいたら、そのときは「人は見た目じゃない!あなたは人を見た目で判断するんですか!」と食ってかかりたいと思います。わたしに死角はない。欠陥商品ですが。