玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

このブログの内容はすべてフィクションです

効率化

▼一週間前の夕食に何を食べたかはすっかり忘れている。でもそれは確実に血肉になっている。忘れてしまった本や映画はどうなのだろう。読み終えたときに自分の心に影響を与えていたとして、その内容を思い出せないとしたら、まったく意味がないのだろうか。それとも一週間前の夕食が確実にわたしの一部になっているように、なんらかの意味を持つのだろうか。

で、「この本はたしか面白かった」ということだけは憶えている。読むべきか読まざるべきか迷っている。読めば面白いということは保証されているが、読んだんだよなあ。

 

▼会社でネットを使っているときに「このサイトは安全ではない可能性があります。業務に必要な場合のみ開いてください」というメッセージが出る場合があります。仕方のないことではあるが面倒くさい。

おおまかに二つ意味があって、ウィルスなどに感染するのを防ぐためと、サボってないか監視・予防という意味がある。ウィルスに感染して取引先に迷惑をかけると信用にかかわるので、これぐらいは仕方ないかとも思う。どういうわけか仕事中に変なサイトに行ってしまう人がいるんですよね。家でやれ家で。

先日、取引先の人と話したがその方の会社はもっと積極的な仕組みを取り入れていた。従業員のデスクトップを監視でき、誰がどういった作業を行っているか無駄なことをしていないか把握できるという。こわー。気が休まらん。

これによって怠惰な従業員の入れ替えがしやすくなったという。無能かつ怠惰なわたしはどうすればよいのか。やめて、そういうの。なんだか大変な会社だと思います。一定数以上の従業員を抱える企業では性悪説によって管理せざるを得ないのかなあ。

もし会社が黒字なら、そんなにキリキリ仕事しなくてもいいと思うんだけど。仕事に飽きたら少し話して、お菓子を食べて、それでもいいのに。あまりに厳しい仕組みで管理してしまうと、困ったとき助けてくれる面倒見のいい人というのも減りそうである。そういう人の能力は数字に反映されない。

給料が良くて管理がきつい会社と、給料はほどほどで自由にやらせてくれるところだったら、自由にやらせてくれるところがいい。その時間が楽しければいうことはない。あまり効率を追いすぎると弊害がでる気もする。その会社にはわたしの友人がいるが鬱やいじめの話などがすさまじい。

そのことと効率化の因果関係は不明であるものの、やはり関係がないとはいえないように思う。適応できない従業員が一定数出ることも織り込み済みで、入れ替えれば問題はないらしい。でも一度心の病になってしまった人は回復するのに大変な思いをするのだろう。回復しない人もいるかもしれない。死んでしまえば取り返しがつかない。過度の効率化を推し進める人は、自分がそちら側にまわることは考えていないだろう。

ただ、こういう会社のほうがのんびりした会社よりも短期的には強い気がする。時速100キロで走って事故が起きても知らんという方針と、事故が起きないように時速30キロでのんびりやろうねというのでは勝負にならない。行き過ぎた効率化が止まるのは、休職した従業員に支払う給料が一定の割合を超えたとき「損だからやめよう」となる。それまでは死のうがどうなろうがどんどん効率化を推し進める。

そういう仕組みを導入することは、自分の会社の人に「君たちは信用できない」という暗黙のメッセージを送るようなものだ。そのメッセージは従業員にどういう影響を与えるのだろう。それで信頼関係は築けるのだろうか。それともすぐに入れ替えるから信頼関係などいらないのか。

その打ち合わせが終わった後、仕事を請けている会社の部長と雑談した。「さっきの話どう思った」と訊かれる。「やっぱり上場企業は違いますね。潔いほどの使い捨て感というか」「だなあ。うちの会社『効率なんてくそくらえ』でやってきたもの。みんなもうちょっとキリキリしなきゃ駄目だと思うけど。のんびりしすぎてるからさ」「そもそも上場する気がないですからねえ。したら負けぐらいの気持ちでやってますから」「やってないけどな」「やってないですねえ」

当分のんびりしてそうで、それはそれでいいんじゃないかと思いました。