玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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推理クイズ フェイスブック

▼友人夫婦の家にお邪魔。友人夫婦の子ター坊(小学3年)と話す。ター坊は推理クイズにはまっていた。わたしも子どもの頃に読んだ。死体があって凶器はなくて、さて被害者はどんな凶器で殺されたでしょう?みたいなやつである。だいたい氷の刃で死んでいる。めんどくさそう。包丁使えば?

ター坊からいくつか問題を出された。ある人間が亡くなったが、その亡くなった住人の部屋を見て自殺かどうか判断するという問題だった。答えは、ビデオ(HDレコーダー?)の予約がされていたので自殺ではないというものだった。

なるほど、そうきたか。もうター坊はページをめくって次の問題にいこうとしている。わたくしは言いました。ちょっと待ちたまえ、と。はたしてそれだけで自殺ではないと断定していいものか。ふと衝動にかられて自殺するということは十分にある。そのときビデオの予約などどれほどの意味を持つのか。

たとえば、知人と会う約束をしておいて自殺することだってあるかもしれない。約束をして死ねば知人や警察は不信に思うだろう。死んでしまえば意識はないが、でも誰かにかまってほしくて、そんな無意味なことすらするかもしれない。人の気持ちはそんなに簡単に推し量れない。だから、たかだかビデオの予約ごときで簡単にこれを他殺と断定していいものか!その安直な考えが冤罪の温床になるのではないか!どうなのかね!

「めんどくさい人、見つけた」をお送りしました。

▼取引先の相手が名刺を切らしていた。彼は「フェイスブックにメールアドレスが記載してあるので、名前を検索してみてください」と言った。なるほど、もうそういう時代なのかと思う。どうも新しい技術に対して、素直に乗れないところがある。

フェイスブックはどうも苦手なんですよね。仕事上アカウントはあるけど、使ってない。何が苦手なのだろうと考えてみた。フェイスブックの創業者マーク・ザッカーバーグが言う「一人が二つのアイデンティティを持つことを許さない」この考え方が苦手である。持ちたいんだなー、いくつものアイデンティティを。

職場での自分、家での自分、友人と接するときの自分、ネットでブログを書く自分、みなバラバラである。わたしがそれぞれにどう振舞っているかも知られたくない。それではいけないのだろうか。わたしが密かに楽しみにしている、飲食店のウィンドウにある不味そうなサンプル、通称毒サンプル探しの趣味なども公開しなければならないのだろうか。職場の人にそんな間抜けな自分を見せなければならないのか。

そんなものはばれてもかまわないが、性的に倒錯した趣味などどうなのだろう。仮に倒錯してたとしてよ!そんなの勝手でしょ!してませんけども。それは極端な話としても、なんでもかんでも公開するのはちょっと困る。

これとはべつにプライバシーの問題もある。Aさんから食事に誘われて断ってBさんと行って、後日Bさんから「昨日はありがとう」と、フェイスブックのページに書かれていた場合、それをAさんが見てしまったらいい気はしないだろう。こちらに別段悪意などなくて、ちょっとそういう気だったというだけなのだけど。そういうことをいちいち気にしなければならない。

それはツールを使いこなしているというより、監視され管理されているように感じる。奴隷のようである。携帯やPCでだいぶ拘束を感じているのに、これ以上枷を増やしたくはない。

親が子どものページを見たり、子の友だちのページを見て、自分の子がしていることを知るかもしれない。子どもは親に隠れていろんなことをやって成長したほうがいいように思うけど。なんでもかんでも知られてるってのは、ちょっと窮屈だ。

そして、もし過去になんらかの犯罪やいじめ、浮気などをしており、それを「あのとき、あなたはこういうことをして‥‥」と、相手のページに書き込んだらどうなるのだろう。普通に生活をしていても、誰かから恨みを買ってしまうことはある。

もし、フェイスブックをすべての人に公開していれば、その人のキャリアが終わることになるかもしれない。それが事実かどうかは重要だが、事実じゃないとしてもかなりのダメージになる。一方的な逆恨みだとしてもイメージは悪化するだろう。書き込む側に相手と刺し違える覚悟があれば、こういったものを完全に防ぐことは難しい。

と、こんなことを書くと否定的すぎると言われるかもしれない。まあ、楽しいだろうなと思います。知り合いがどんなふうに暮らしてるんだろーなーと検索するのは。ただ、それは際限なく時間を使ってしまいそう。そうやって時間を使って得た情報というのは本当に必要なものなのだろうか。

それにこんなことを言うのは冷たい人間と思われるかもしれないけど、昔の知り合いと連絡が取れなくてもべつにかまわない。どこかで楽しく暮らしていてくれさえすればいい。もちろん街で偶然再会したなら、それをきっかけに連絡を取り合ってもいい。それで十分かなあ。

きっとあんまりたいしたことじゃないんだと思う。塩味が好きか、醤油味が好きか。車に乗るか、乗らないか。その程度のことなのだ。フェイスブックをやるとかやらないとか。現在のフェイスブックは自動車のように社会に必要不可欠なものではなく、「面白いけど死人が出る祭り」のようなものだと思う。

大学時代に先生が言っていた「何をやるかじゃない。何をやらないかを決めるんだ」というのは、きっとこういうことかもしれない。いつかはわたしもやるかもしれないけど、今はまだいい。

で、フェイスブックについて書かれた「フェイスブック 若き天才の野望」(デビッド・カークパトリック)を読んだのだけど、面白かったです。フェイスブック創業から、会社が拡大していく様子が丹念に描かれています。フェイスブックが目指す「世界にもっと透明性を加える」「世界を変える」とは具体的にどういうことなのか、見届けたいと思います。やらんけども。

▼と、いろいろ理屈っぽいことを書いたものの、結局わたしの中に新しいものに対し「しゃーらーくーせー!効率なんか知るか!アナログで悪いか!めんどくさい」という思いが渦巻いているのだ。なんですか、これ。友だちたくさん人間への妬み?やっかみ?

否定しない。

わたしのこの器の小ささを透明化されても困る。