玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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なんだかよくわからない話

▼読み終わっても「で?」としか思えない話です。それでもよいかたはどうぞー。

▼大通りよりも裏道が好きです。だから時間に余裕があるときは、多少遠回りになっても裏道を通ることが多い。

先日も住宅街の中を抜ける裏道を通った。そこを通るのは初めてだった。裏道を抜けて丁字路の突き当たりが見えてきた。丁字路の左側の角には平屋の木造家屋、右側一帯は空き地になっている。丁字路を抜けたとき、声をかけられた。左側の家の玄関に70歳ぐらいのおじいさんが立っている。

「ここは私道だからね。本当は通っちゃいけないよ」

通りに入る前に私道を示す看板はなかったように思う。丁字路の出口にも、そういった注意書きはないようである。気づかなかったのだろうと思い、おじいさんに詫びた。おじいさんはその後すぐに家に入っていった。

用事を済ませての帰り道、先ほどの丁字路までやってきた。丁字路を左に曲がってしまうと私道に入るので、そのまま通り過ぎる。先ほどの家では50歳ぐらいに見えるおばさんが玄関前の鉢植えに水をやっている。

丁字路の先は行き止まりになっていた。しかたなく戻ってくる。戻ってきたわたしを見て、先ほどのおばさんが声をかけた。

「ここ(丁字路)を抜ければ、通りに出られるよ」

「さっき来るときにそこを通ってきたんですけど、おじいさんにそこは私道だからと教えてもらったので」

「おじいさん‥‥おじいさんねえ。ここらへんにおじいさんはいないけどねえ。隣近所もおじいさんはいないし」

「そうなんですか」

では、わたしが話した男性は誰だったのだろう。話し終わった後、家に入っていったのを見たし、この家の住人だと思うのだけど。しかし、あらためて問い質すのも少し気が引けた。おばさんは気を取り直したように続けた。

「ここ私道じゃないから通っても大丈夫よ」

先ほどのおじいさんと言っていることが違う。どちらが本当なのだろう。だが、遠回りするのも面倒だし通らせてもらうことにした。丁字路の終わりを抜けて振り返ったが、やはり私道であることを示す看板などはないようだった。なんだかよくわからない話である。

▼長々と書いてしまった。おじいさんとおばさんの話は矛盾しているが、これを矛盾なく説明できる方法はないか考えていた。

【この道は私道か】

・おじいさんは丁字路を私道と主張しており、おばさんは私道ではないと言っている。どちらが本当かはわからない。

【おじいさんとおばさんは誰か。二人の関係は】

・おじいさんはあの家の住人なのか。おばさんは「ここらへんにおじいさんはいない」と言っている。だが、おじいさんはわたしと話した後、家に入っている。その様子からしておじいさんはこの家の人間であるのは間違いないように思える。でなければ泥棒か何かだが、泥棒ならわたしに話しかけるはずはない。

おばさんは家の前の鉢植えに水をやっていた。やはりこの家の人間と考えるのが自然だろう。

【仮説】

最初は、実に失礼ですがおじいさんがボケてしまっているのかと思った。だが、おじいさんの様子はごく普通に見えた。次に考えたのが、あのおばさんがボケていたということである。しかし、おばさんもごく普通の様子に見えた。

では二人ともボケていなかったとする。その場合、おばさんの「ここらへんにおじいさんはいない」という言葉がわからなくなる。これは「おじいさん」の認識に違いがあるのかもしれない。はたして70歳ぐらいはおじいさんなのだろうか。今は若々しい人が多いので70歳でも「おじいさん」に入らないかもしれない。

そして、このおばさん(50歳ぐらいに見えた)とあのおじいさんは夫婦だとする。すると、おばさんからすれば夫を「おじいさん」と認めてしまうと、必然的に自分は「おばあさん」ということになってしまう。それがですね、許せなかったんじゃないかと。乙女心として。だから「おじいさんはいない(おじさんはいる)」という言葉になったのではないか。

私道か私道でないかはよくわからないのですが、こう考えれば「おじいさんはいない」と言ったおばさんの言葉は説明できるように思えた。

▼どうでもいいことを一生懸命書いてしまった。実はあのおばさんがボケていて、まったく関係のない家の鉢植えに水をやっていただけということもある。それはかなり恐ろしい気もする。それか、わたしがボケていてそんな家やおじいさんやおばさんもいないということである。というか、なにこの変な感じ。怖い。いろいろ怖い。誰か納得のいく説明をしてくれませんか。