玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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電車

▼電車のラッシュの時間というのは、よくトラブルが起こる。そもそもあんな狭い所に押し込められているのだからイライラしないほうがおかしい。わたしの前に立っていた二人の男が、足を踏んだ、踏まないで口論になった。踏まれたと主張した男の口調が激しかったせいか、つかみ合いが始まった。

目の前でやられたので止めたけど、「あー、これはわたしも巻き込まれて殴られるかもしれん」と思った。それぐらい殺気立っていた。怖いですね。もう、わたしなど喧嘩はからきしである。でも、ただ殴られるのは悔しい。なので、殴ったやつが夢でうなされるほどの痛がり方をしてやりたい。白目をむいて口から泡を吹き、死んだと思わせて焦らせたい。これぞ弱者の美学。よくわからないけど。

幸いそんなことをする必要もなく、周りの人たちもその二人をなだめてくれたので無事おさまりました。

▼だいぶ前にもトラブルではないけど電車内でちょっとしたことがあった。わたしが大学生の頃、春休みにバイトを一ヶ月ぐらいした。その会社に七十代半ばぐらいの老人がいた。会長と呼ばれており、たしかその会社の創業者だったと思う。とてもおおらかで、しょっちゅう冗談を言っているような気さくな人だった。「もう、これぐらいの歳になると、なんでもいいんだ」が口癖の人だった。

ある日、その会長から荷物を取りに行くからついて来いと言われ、二人で電車に乗った。たいして混んではいないものの座席は埋まっていた。会長が辺りを見回すと、一人で二人分の座席を占領している若い男を見つけた。足を投げ出して、座席からずり落ちたような姿勢で座っている。彼が詰めてくれれば、あと一人座れるだろう。

会長は、ひょこひょことその男に近づいた。

「あれえ、ずいぶん足が長いんだなあ」

男は、会長をにらみつけたが何も言わなかった。

「ちょっと詰めてくれると助かるんだけどね。ほら、わし、ジジイだから‥‥、はっはっは!」

会長は自分の言葉で笑っていた。男はうっとうしそうな様子をしたものの渋々といった様子で席を詰めてくれた。

「ありがとう。ありがとう。いやあ、親切で助かりました」

どうなることかとヒヤヒヤしていたが、会長はまったく気にする様子もなかった。

駅に停車し扉が開いた。すると、会長より少し上、八十歳ぐらいに見えるおばあさんと付き添いの娘だろうか、六十歳ぐらいの女性が乗って来た。会長は軽く手を挙げて挨拶した。あまりにも自然な様子だったので知り合いかと思ったがそうではなかった。

「ここ空いてますよ。どうぞどうぞ」そう言って、自分の席を指した。おばあさんに席を譲った。おばあさんや付き添いの女性にお礼を言われた会長は、「いやあ、なにもなにも」と顔の前で手を振り、とても楽しそうである。そして、「わたしもさっきこちらの親切な人に譲っていただいてね」と、隣の若い男を手のひらで示した。親切もなにも、初めから二人分占領していた迷惑な奴である。

ふと付き添いの女性を見ると、ずいぶんたくさんの荷物を持っている。会長が少し会話を交わしたが、入院の準備と言っていたようである。会長が男に言った。

「こちらの方も重そうな荷物を持ってるから、申し訳ないけどちょっと席を代わってもらえんかねえ」

男は、無言で立ち上がった。おばあさんや付き添いの女性、会長からお礼を言われて満更でもない様子だった。男が降りるとき、またみんなでお礼を言っていた。彼も、少し頭を下げて降りていった。

尖っている人に、尖った態度で臨めば喧嘩になってしまうだろう。当初、足を投げ出していた男は、文句をつけてくる奴がいれば喧嘩をしてもよいと思っていたのではないか。そんな投げ遣りな様子だった。あの態度ならば他の客が注意したとき、揉め事になっていたと思う。そうすると、会長はあの二人の婦人に席を譲っただけでなく、他で起きたかもしれない揉め事も事前に防いだことになる。あんなに丸く物事を収めるなど僕にはとてもできそうにない。

「わしは高校も大学も出とらんから、まー、君たちのように優秀ではないし、なんもわからんけど」と、しばしばおっしゃっていた。だが、あれから十五年ほど経ったが遠く遠く及ばない。あんなにひょうひょうとしてくだらない冗談ばかり言っている、そんなすてきな人になりたいものである。