玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

このブログの内容はすべてフィクションです

面白くなくなる

▼ここ半年ぐらいあまりテレビを観ずにいました。まとまった時間がとれたので、知り合いがハードディスクに何百時間も録画した番組を二日かけて観てきました。人の家で、なんと迷惑な。ここ半年ぐらいのテレビの流れがだいたいわかったような気がする。主にお笑いを観たのだけど、有吉さんやフットボールアワーの後藤さんなどが特に面白かったです。

で、ダウンタウンの松っちゃんのコント番組MHKを期待して観た。だけど、何が面白いのかまったくわからなかった。浜ちゃんとやったものは少しおかしかったけど、他のはまったくわからない。わたしの感覚がもう駄目になっているのかもしれない。以前は、ラーメンズバナナマンおぎやはぎキングオブコメディなどのコントが好きだったけど、今、観たらまったく違う印象をうけるのだろうか。

お笑いは真面目な映画などよりも劣化していく速度が早いように感じる。劣化していく原因を考えたのだけど、二つ思いついた。

一つは観る側の学習である。「そのパターンはもう知ってる。古い。だいたいわかっている」ということで興味を失ってしまう。特にギャグなどは劣化が早い。一年ぐらいで寿命がきてしまう。

二つ目は作る側の体力の衰えではないだろうか。なぜ、面白い人間が面白いものを作り続けられないかという話に繋がる。

たとえば、年老いた猫がいるとして、若い頃はあんなにはしゃいで猫じゃらしに飛びついていたのに、年老いたらどうでもよくなってしまう。猫じゃらしを目の前で振っても、「まあ、まあ、そういうのもういいから」みたいに面倒になってしまう。もう、はしゃぐ気分ではないのである。体が変化することで、いろいろと面倒になり、それが、「まあ、いいじゃないか」に繋がるように思う。

人間でいえば「丸くなる」というやつである。まあ、いいじゃないかという感じになってしまうと怒りに満ちた鋭いものを作りづらい。そういうものを作れるのは頑張っても四十代前半がいいところかもしれない。「まあ、いいじゃないか」と思ったまま、無理にはしゃいだり怒ったりしてみても虚しい。やろうにも気持ちがやれなくなってしまう。そういう物を作る気分ではなくなる。

すると、今度は話がきれいにまとまっているとか、洗練されているとか、技術が「見事」という方向に行ってしまう。見事なものは、それはそれで面白いものの、じゃあそれで腹を抱えて笑うかというとそうはならない。「ふうむ。あれはいいね」みたいになってしまう。見事方向に行く他の理由は、歳をとったのにあまりくだらないこともやってられないというのもあるだろう。実に残念である。

ちょっと猫の話に戻るけど、猫の寿命が仮に十五歳ぐらいだとして、人間でいうと十五歳はまだまだはしゃいでいる。でも、猫にしてみればもういろいろ面倒になっている。丸くなる要素は、年数ではなくて体力が落ちたことによる精神の変化だと思う。

で、この前テレビで百歳のインド人がマラソンを完走したというニュースを観た。ああいった人は、ふだんものすごくはしゃいでいる人なのだろうか。体力がある百歳の老人というのは、何を面白いと感じるのか。それとも普通の百歳とそんなに変わらないものなのか。

百歳の老人はYahoo知恵袋などで聞いても答えてくれないだろう。何を考えているか聞いてみたい。以前に春風亭小朝が司会をしていた番組で、百歳の老人がゲストが出ていた。そのとき、その老人が「来年から健康のために禁煙しようと思う」と言ったのは驚いた。

あんたどこまで生きるつもりなんだと感心した。それがギャグなのかどうかすらわからない。あの、死ぬことを忘れちゃったんじゃないかという感じが百歳まで生きられたコツなのかもしれない。

百歳といっても人によってまったく違うのだろうけど、そこから見える景色はどんなものなのだろう。そして何を面白がるのか。それを見てみたい気がする。ただ、仮に僕が百歳まで生きられたとしても、かなりマズイことになっている気はする。ご飯を食べた直後に「ご飯はまだかのう?」と言っている自信がある。

 

JUGEMテーマ:日記・一般