玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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ラーメン屋

▼スーパーに行った。

幼稚園ぐらいの男の子がダンボール箱を指して、しきりに母親を呼んでいる。

「ママー!オニー!オニー!」

その段ボール箱を見ると「鬼ひび」と書かれている。どうやらセンベイの箱らしい。その子は鬼という漢字だけは読めるようだ。積み上がった段ボール箱を指して「ママー!これもオニー!あっちもオニー!」とやっている。母親はそんなことには慣れっこで、もう飽き飽きしているのか、ずっと先を歩いている。

「ほらあ!早くしないとおいてくよ!」そう一喝されて、すごすごとダンボールの山から離れる子ども。母親を追いかけながら「ママ~、オニ~……。ママ、オニなんだよ……、オニなの……」と、しきりにつぶやいていた。そのひとり言はいろいろ誤解されそうである。誤解ではないのか。

▼ラーメンが美味しい季節になった。スープの香りに誘われて、ふらりとラーメン屋に入った。午後5時ぐらいということもあって店内にはわたしの他に客はいなかった。まだ忙しくなる前だからか、のんびりした雰囲気である。アルバイトらしき二十歳ぐらいの男と三十代半ばぐらいの店主が厨房にいる。

店主が麺を茹でながら、そのスタッフに話しかけた。

「この前うちの店、一周年になったんだよ」

「はい」

「来週の日曜に店終わった後、みんなで飲みに行こうと思うんだ。来週、バイトのあと予定空けといて」

「はあ……」

いかにも気乗りしなさそうな返事だった。店主は少しさびしそうだった。

そのバイトの子の気持ちがすごくわかる気がする。ただバイトしてるだけなのに勤務時間が終わったあとに拘束されるとか、面倒だなあという。わたしが学生時代にここでバイトしていたら、やはり同じことを思うかもしれない。飲み会が苦手なタイプだっているわけだし。

だいたい、一周年だか十周年だか知らないけど、それはお前の店の事情でそんなことは知らないよというのもある。

ただ、店主の気持ちも少しわかる。店を開くというのは大変なリスクを抱えている。飲食がひと月いくらで回せるかは知らないが、おそらく2~300万なのではないだろうか。仮に200だとすると年間ほっといても2,400万かかる。採算が取れない時期のために、いくらかの蓄えは必要である。

しかし、一年分の蓄えがあって出店する人はいないだろう。おそらく手元に500万あれば良い方ではないか。それで店主が仮に病気などで入院すれば、もう店をたたむしかない。また、近くに人気店が開店すれば、もろに圧迫される。そういうギリギリのところを切り盛りし、経営を安定させて、こうして人も雇えるようになった。

店主にとってこの一年は新しいことばかりだし、きっといろんな苦労があったんだと思う。年齢的にも金銭的にも失敗はできない。でも、独立して挑戦しようと店を開き、それでなんとか一年やってこれたのである。

店主がラーメンを出してくれた。

「一周年なんですね。おめでとうございます」

自然にそう口から出た。

「……、ありがとうございます!」

一瞬の間のあと顔を上げて、本当に嬉しそうに笑った。そして店を開くまでの話などを聞かせてくれた。

店主に見送られて店を出た。寒空の下、ラーメンの温もりが残る中、家へと自転車をこいでいた。僕が二十歳ぐらいだったら、あのバイトの子のように一周年と聞かされても何も思わなかっただろう。店はごく当たり前に存続しているものだと思い込んでいるかもしれない。

そんなことを考えていたら、歳を取るってことはなかなか良いことかもしれない、ふとそんなふうに思いました。