玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

このブログの内容はすべてフィクションです

映画「リトル・ランボーズ」 本「ハッカーと画家」

▼少年時代のあるある映画 リトル・ランボーズ / 2007 英 プリマス同胞派教会の厳格な戒律を守る家庭で育ち、テレビや音楽などの娯楽を禁じられて育った少年ウィル、学校きっての問題児カーター。ふとしたきっかけで出会った二人は、カーターの家で観た「ランボー」に触発されて映画作りに没頭していく。 子どもの頃やっていた変な癖というのがあります。学校からの帰り道、石を蹴り続けて家まで帰れたら100万円とか。100万円どうすんだ?100万円もらえるのかな?よくわかんないんだけど、なんだかそんなルールを自分に課して家まで石を蹴り続けたとか、そういうことってないでしょうか。あるよね?あるって言って! この映画でも、主人公の少年ウィルが水を口に含んだまま授業を受け、その水を学校の金魚鉢に吐き出すなど、よくわからないことをしています。おまえのそのルールはなんなのだと思いつつ、「あー、なんだかこういうのちょっとわかるわー」と、子ども時代の感覚に戻りました。子どもならではのあるある話というか。 フランスからやってきた留学生がウィルと急激に仲が良くなり、それが面白くない友人カーターの嫉妬。ウィルとカーターの出会いではカーターがあきらかにウィルを見下していて、それが徐々に仲良くなっていくなど、共感できる描写が多かった。 左) カーター 右) ウィル カーターは、スタンド・バイ・ミーリバー・フェニックスを思わせます。 かわいい顔して過激な行動をとりがち。気をつけないと死ぬ。 少しわかりづらかったのは、信仰を持つ母親がプリマス同胞派の男性を追い出すシーン。母親はウィルが映画を撮っていることを知らず、カーターという友人と付き合っていることも知らず、ウィルが何を考えているかまったくわからなかったと思う。だから、母親の行動が唐突すぎるように思える。それでみんなして「万歳!」って言われても、ちょっとよくわからないのだった。 ラストは、「そんなうまいことあるんか!」と思わせるような展開ですが、それでもちょっとホロッときます。少年時代の一コマを思わせるような映画でした。 ポール・グレアムのエッセイ集「ハッカーと画家」に印象的な一文があった。 「良いデザインが出てきやすいのは、対象とするユーザがあなた自身を含んでいるときだ」 自分のために物を作ることが、もっとも優れた物を作ることができる可能性が高い。それは興味が持続しやすいから士気を高く保てるということもあるだろう。「この程度やっとけばいいんでしょ」という仕事で士気を維持することは難しいし、それは心を荒ませることにもなる。 自分の仕事を適正に評価できるのは自分しかいない。裏を返せば、自分が評価できない仕事というのはちょっと問題があるということでもある。それは仕事に限らず日常の些細なことでも同じだろう。たとえ、このような日記ですら自分が納得しなければ価値がないということだろう。   そういうですね、厳しい基準で評価を始めると、この日記などは読み返して全削除せざるを得なくなってしまう。たまーに、読み返すことがあるんです。そうすると、叫びだしたくなるぐらい恥ずかしいときがある。それを「あの頃は若かった。あれはわたしであってわたしでない」ぐらいの余裕で受け流せるといいんだけど。 二週間ぐらい前のですら、ひどい。読み返すと健康を害する。寿命が縮んでいくのがわかるんです。