玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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窮屈

▼今、仕事を請けている会社からアシスタントを一人雇ってもいいという許可がでた。一緒に仕事を請けているN氏にそのことを伝えると、「駄人間のくせに生意気だ!」というメールをもらった。

「産業廃棄物だと思っていたのに、人間扱いしてくれてありがとう」と、返信。

これぞ大人のメール対応。

今日から毎日、N氏の家の前に小動物の死がいを置きます。無言電話を一日千回掛けます。駄人間呼ばわりは許さねえ。本当のことを言うヤツには復讐あるのみ。

▼以前の会社の同僚と話す。彼はブログをやっていたが少し窮屈になってやめてしまったという。彼は変わった角度から物事を見るし、その意見も興味深いので残念である。ただ、窮屈という感情はなんとなくわかる。今はちょっと誤解を招くような表現があるとすぐ批判にさらされる。

情報を受け取る側に一度でも目を付けられたり、嫌われたりすると、その評価を覆すのが難しい。ツイッターなどは文字数が少ないせいで詳細が削ぎ落とされ極端な論調になってしまい、トラブルを招きやすくなっているように感じる。そして、意見そのものの本質よりも、その意見を好きか嫌いかによって評価されるところが大きい。

一度嫌いと判断すると、どんな手段で批判してもいいと思っている人たちがいる。気に入らない意見だと思っても、それを放っておくことができない人たちである。自分がまったく被害を受けていないにもかかわらず抗議するのを見かけることもある。その濁流のような攻撃にさらされると、どうしようもなくなってしまう。

書く側も一つ一つ反論するとエネルギーを使うし、そんな議論に時間を割くのも惜しい。そうするとやがては毒にも薬にもならない、当たり障りの無い意見ばかりが増えていくのだろう。きっとテレビを面白く感じなくなった原因の一つも、抗議に対処するのを嫌がり、誰からも文句を言われない番組ばかりが増えたところにあるのではないか。それでも文句は言われているが。また、ネット上でもこの傾向がより一層強まっていくのだろう。

残念なのは、本を出版するわけではないにしろ、優れた見識を有している人たちが自分からその口を閉ざしてしまうことである。面白いが誤解を招きやすい表現は公表されないこともあるだろう。きっと公表されなかったものの中にこそ、価値あるものがあったに違いない。強い攻撃性を持つ人たちが、みずからの手でその優れた見識に触れる機会を失くし、面白いものを台無しにしていることがなんとも残念である。