玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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メール

▼以前、勤めていた会社へ。打ち合わせは5分で終了。

もう社員ではないのだけど、顔を出すと、つい雑用をしてしまう。雑用やお使いがけっこう好きである。

一人、見たことのない人が座っている。50歳ぐらいで、口の周りにフサフサの口ひげをたくわえ、熊のようにたくましい。ずいぶん貫禄がある。元同僚に聞くと、取引先の社長で、営業の代理店になってもらうらしい。その人と目が合った。ニコッと笑い、声をかけられた。

「すみません。ちょっと、おメールの設定をお願いしたいのですが」

見た目の印象と違い、ずいぶん丁寧な話し方をする。メールのことを「おメール」というのを初めて聞いた。初対面だし、ふざけている様子もない。失礼にならないよう、わたしも調子を合わせて「えーと、おメールの設定はですねえ‥‥」と、隣に立って彼のPCを操作する。

そこに部長がすごい勢いで帰ってきた。この人は何もなくても普段からバタバタしている。わたしを見つけると「よ!元気か!」と、声をかけてくれた。そのまま、資料を取って出て行こうとする。部長に軽く返事を返し、メール設定の続きを熊みたいな社長と続ける。

「おメールのソフトって、何を使っていますか?」と、訊ねた。

部長は、横を通り過ぎるときに勢いよくわたしの肩を叩いた。

「なんだ、おメールって?あん?

おまえ、なんでそんなバカみたいな言葉使ってんだよ!ハッハッハ!

じゃ、またなっ!」

そのまま、風のように出て行った。悪気はないのである。ただ、けっこう爆弾を落としがちな人である。

いやあ、もう、なんというか、横を見られない。この熊みたいな社長の顔をですね、見られない。部長の言葉は何も聞かなかった。あんな無神経な生き物はいなかったということにして、おメールの設定を終えました。ギクシャクとしたお動きで、お机に戻り、そのあと逃げるようにお帰りになりました。わたくしが。

熊社長の顔は最後まで見られなかった。