玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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明日から本気 不信

▼そろそろ真面目にやらねばということで、行政書士試験の勉強を始めました。

しかし、恐ろしいほどにやる気が出ないのだった。法律の勉強というのは「アイツ、悪いヤツ!だから有罪!」というイメージでした。まあ、そーゆー人間が法律がどーだとかねえ、偉そうなことをねえ、申し訳ない。腹でも切りましょうか。

そんで、実際にはやはりそんな単純なケースは出題されません。

「原則Aと解釈するのが妥当であるものの、Bといえないこともなく、又Cと解釈できる余地がないわけでもない」みたいなことをいう。

「で!結局、有罪?」と、いいたい。まわりくどいのが苦手である。悪い人は、おでこに「悪」とか書いてあればいいと思います。

しかし、このまわりくどさをファミレスでやったらどうなるのか。

「原則カレーが食べたいと思うものの、しかし、今日の気分からいえばビーフシチューも捨てがたく、では、ビーフシチューに決定されるかといえば、ふと目に入ったクリームシチューも捨てがたい。ここはひとつウェイトレスのあなたに決めていただきたいのだが」

決まってから呼べ。家で消しゴムでも食べてりゃいいと思います。

新報道2001(5/22放送 フジ)という番組のアンケート結果を見ました。

政府の原発事故に関する情報公開について、あなたはどう考えていますか。

信頼できる 13.0%

信頼できない 82.4%

(その他・わからない) 4.6% 

「信頼できない」が82.4%である。まあ、そうだよなあと思いました。残念ながら政府や東電が何を言おうと、その情報を全部鵜呑みにはできなくなっている。鵜呑みにしたほうが気持ちが楽だからそうしたいんだけども。

なんでこんなに不信感を持ってしまったのだろうか。それをちょっと考えていました。

記者会見などで、ただちに影響はないとか、健康に悪影響はないとか、それはそう言わざるをえないのだろう。でも、本当にすべて計算されて大丈夫であれば、そもそも大前提として原発が事故ってないというのがある。一度、大事故を起こしてから言われてもと思ってしまう。まあ、政府と東電を同一視するのは正しくないのだろうけど、政府の震災対応なども重なって、もうほとんど同一視してしまっている。

なぜ、発表において何か隠されている気がするのだろう。発表の言葉の選び方をみると、つまるところ国民を信頼していないのではないか。まー、あいつらすぐパニック起こすし、ここは慎重な言い方をしないとという考えはわかる。それはそうなのだけど、その慎重さゆえに言葉が曖昧になり、かえって疑心暗鬼を生ずという結果になっている。

じゃあ、率直に発表されればパニックを起こさないかといえば、なんともいえない。たしかに、わたしなどがそうだがバカなんである。バカであるんだけども「あ、なんか信用されてないな」という感覚は伝わる。むしろ、そういう鼻はきく。言葉にしなくても相手をどう思っているかは伝わる。特に悪い感情はなおさらである。そして、信用してくれない相手からの情報というのは、やはり信用しづらいものである。困ったものです。

結局、失った信用を簡単に取り戻す方法などはない。一つ一つ積み重ねていくだけである。欲を言うなら、政府の中に信じたい人というのが出てきてくれればいいと思う。この人が言ったなら信じてみようとか、この人のためなら多少の不便も我慢しようとか、そういう気持ちにさせる人でなければならない。ちょっといい例えが浮かびませんが、野球の王さんのような人である。それは能力というより性格の話かもしれない。そういったものを政府関係者に求めるのは酷かもしれない。

無論、政府の方は日々努力されているのでしょう。ただ、大変なことになったら逃げ出したり、隠したりするんじゃないかという疑念が拭いきれない。

「じゃあ、辞任するのであとはよろしく!がんばって!」みたいなのは、うっすら見える気がする。

あ、見えた。

自分がすべての責任を持つから、どうか最後までやり遂げてくださいという覚悟が見えない。王さんのような人なら、そういうことを言ってくれる気がする。つらいときに、尊敬できる人の言葉にすがって乗り越えられるということがある。そんな人間が出てきたら奇跡だけど、そうもいかない。ただ、目の前のことを一つ一つ片付け、地を這うように少しずつ前進していくしかないのだろう。