玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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新緑

▼きちんとお花見もしないまま葉桜に変わった。4月の終わりから5月の初め頃、鮮やかで瑞々しい新緑の時期。陽の光も明るく、風も気持ちよい。もっともやる気に溢れる季節である。そして6月になると梅雨になり、じめじめとした湿気と長雨で家から出たくなくなる。

なぜ今、梅雨のことを書きましたか。憂鬱を先取りしてどうする。

▼新入社員の茶柱くんと話した。

「失敗しないためにはどうすればいいですか?」と聞かれた。失敗というのは途中でやめるから失敗になる。その失敗を活かして成功するまで続ければ途中の小さな失敗は失敗にはならない。

「成功するまでやり続けることかなあ」と答えた。すると真顔で「はぁ?」と言われた。

あれー?ちょっといいこと言ったと思ったのに。なんでだ。

あ!そういうことじゃなく?ちょっといい話方面の答えじゃなく、具体的にか!そっちかー!うわー、恥ずかしー。

「あの人に聞いたら得意げに精神論っぽいこと言われたわー。ウケル!」とか言われてそう。ちょっとオマエ!表出ろやコノヤロー!

そもそも、ここは表ですよね、そうですよね。妄想で勝手にエキサイトするのはよくないですよね。

「作業手順を見直すのとチェックリストを作るといいと思います」

ごく当たり前のことを言いました。

▼TBSでやっているJIN-仁-という幕末のドラマを観ている。

ドラマの中に、神様は乗り越えられる試練しか与えないというようなセリフが出てくる。とても印象的なセリフであると同時に、宗教はこうして広まっていくのかもしれないと思わされた。とても困難な状況や受け容れがたい理不尽なことが起こったときには、やはり何かにすがりたくなる。

ただ、技術が発達してそれまで奇蹟とされてきたものやさまざまな現象が解明されていくにしたがって神も活躍の場を狭めてきたかに見える。技術によって神が駆逐され、畏れるものがなくなってしまった。しばらく前までは「悪いことをすると地獄に落ちる」とか「バチが当たる」とか、そういった言葉にある程度の効果があったのではないか。

神を駆逐したとき、次に神に代わる存在が技術なのだろうか。技術は道徳を形成するとは思えず、ではこの時代は何を道徳の指標とすればよいのだろうか。とはいえ、なきゃないなりにやっていけるからなあ。20世紀は「なきゃないなりに」の時代だったと思う。21世紀は何か新しいシステムを発見するのだろうか。しないように思う。わりとグダグダのなあなあで22世紀に突入。