玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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節分

▼節分に友人夫婦の家に遊びに行った。

インターホンを押したところ、いつものように友人夫婦の子ター坊(小学校低学年)が出迎えてくれた。出迎えてくれたものの、ドアの隙間からこちらをのぞき込み、開けてはくれない。節分だからか、鬼のお面をかぶっている。ドアの隙間から、じっとこちらを見上げて訊ねる。

「鬼ですか?福ですか?」

「え?‥‥なにその合言葉みたいなの」

「鬼ですか?福ですか?」

「福です!」

「‥‥嘘は駄目です」

そう言うとドアを閉められた。あのー、なんだその出迎えは。

「じゃあ、鬼!鬼という方向で!‥‥おーい」

「‥‥」

「ねー。鬼ですけどー」

「おかあさーん、鬼が来たー!武器とってー!」

武器って。

ドアが開いたと思ったら「鬼はーそとー!」と言いながら豆をぶつけてくる。 鬼のお面かぶったやつに「鬼はーそとー!」って、豆ぶつけられる。納得いかん。おまえも鬼だしね。むしろ仲間じゃん。矛盾という言葉を知らない人だ。

▼ワーキャー騒ぎながら豆まきを終えた。その後、豆を歳の数だけ食べることになった。ター坊が全員に分けてくれた。

「えーとー、おかあさんは‥‥20個?」

どこでそういう技おぼえるの?末おそろしいわー。末おそろしい子だわー。将来の歌舞伎町ナンバー1ホストいたわー。

twitterを始めてはみたものの、わりとすぐにやめてしまう人がいる。フォローし返さないことに気を遣ったり、あまり好ましくないつぶやきを見続けたりするのがしんどい、つぶやきに何も返さないことを悪いなと感じたり、理由はいろいろである。

常に密なコミュニケーションを取り続けるのはストレスになるかもしれない。ある年齢より上の人間はtwitterのサービス開始前の状態を知っている。だから、以前の状態と比べたときに面倒に感じるのだろうか。

で、小学生や中学生などが携帯を使い出し、twitterのようなサービスに囲まれているのが当たり前だとしたら、もうそれは当然すぎて、そのコミュニケーションの濃密さはまったく気にならないかもしれない。変な罪悪感も感じず、うまく相手を無視できるし、見たくない情報はストレスなく遮断できるというような。

以前の上司が「人間のほうが技術の進歩についていけなくなる」と言ったのは、このストレス状態を指したものだったのかと思う。しかし、若い世代(小中学生)は案外すんなり適応できるんじゃないだろうか。適応した世代が、また新しいサービスを生み出していく。そんな彼らが作るサービスはどんなものになるのか。そういうことを考えてました。豆をぶつけられながら。耳の穴を狙わないでください。