玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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どうしたらいいのか

▼えーと、生きてます。

前回あんな日記を書いてしまったので、ことによると死にかけているのでは?とご心配いただいたかもしれません。更新しなかったのは、気が向かなかっただけです。すみません。胃腸だけは丈夫です。

たくさんのお見舞いのメールありがとうございます。

などと書いてみたい。一通も来てないから。

そういえば「割り切った関係を希望します。SF募集です」みたいのは来た。あれか、サイエンス・フィクション募集か。やはりブレードランナーかキューブでしょうか。ガタカもいい。旧東ドイツみたいな雰囲気のSFってのも、けっこう好きです。二度と送ってくんな。

▼先日、テレビで落語を観た。

これは演者ではなくわたしが悪いのだけど、あまりよくわからなかった。その時代の知識がないから、うまく入り込めないというのもある。それに、その時代のもの、例えば吉原を知らない時代の噺家が吉原を語るというリアリティのなさもある。

どうも純粋に楽しめない。見続けていれば、志ん生のやる「火炎太鼓」と、他の人がやったときの違いがわかるかもしれない。その状態になると、無心でそれを楽しむというより、分析という方向になっている。「うまい」とか「見事だ」と表現されるものである。分析的な楽しみ方はもちろんあるものの、それは本当に落語の正しい受け止め方なんだろうか。

本来は、もっと無邪気で純粋に楽しめたのではないか。誰かがころんだときに思わず笑ってしまうとか、単なるバカ話というか、そんなもの芸じゃないだろうと言われると、そうかもしれないんだけど。

伊集院のラジオなどを聴いていると、そういう「ただ、おもしろい」という、後に何も残らないおもしろさがある。落語も最初は、普通の町人相手にやっていたように思うんだけど、何かちょっと敷居が高くなってしまったように思う。

歴史が積み重なり、芸という形になると、つい見事な方向に行ってしまう。見事な方向に行かずに、ただのバカであり続けるのはずいぶん難しい。しかも、落語というのは修練を重ねてのバカなわけだから大変だ。必死にネタを憶えて、それを自分のものにして演じるけど、その修練の苦労をお客に見せるわけにはいかない。

芸になってしまえば、バナナの皮で滑ってころんだとしたとしても「あれは実に見事だねえ」とか「先代を越えたねえ」となる。

だから、バナナの皮でこけただけだって!と主張しても無駄である。もう、見事なんだから。なんか変なふうに褒められる。