玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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空気 王様

▼昔、職場の先輩が言っていたことを思い出した。ある問題が起きて、それについてビデオ会議で話し合ったがうまく伝わらなくて、直接会ったら5分で解決した。

直接会ったときの間とか空気、気配というものだろうか、それがやはり重要なんだ。知人とメールでギクシャクしても、直接会って話せばなんてことなくなる。大事なのは、あの空気なんだ。それはビデオ会議の画面を通してはあまり伝わらない。

ライブだって舞台だってそうだ。大事なのは空気、その場の空気を共有することだ。感じれば一瞬で思い出すのに、なぜこんな大事なことを忘れていたのだろう。

▼仕事仲間のY氏の家に届け物をする。お邪魔して少し話す。

生まれて3ヶ月ほどの赤ん坊が寝ている。息をしていないみたいに静かだ。丸くて小さな手が時折ぴくぴくと動く。こないだまでこの世にいなかった人なんだなあ。それがこうして目の前で生きている。ようこそ、世界へ!

あまり住み良くないかもしれんけど、それは自分でなんとかしてください。

途中、Y氏に電話があった。Y氏は、5分ぐらいで戻るから赤ちゃんを見ていてくれと言ってマンションを出た。奥さんは外出しているので赤ちゃんと二人きりである。ま、赤ちゃんは寝ているし大丈夫だろう。

と思っていたら、いつの間にか目をぱっちり開けてわたしのほうを見ている。

目があったかと思うと、いきなり大声で泣き出した。ま、わかります。その気持ちわかります。起きたら知った顔が誰もいなくて、知らないオッサンがいた。これは泣く。

これはわたしが見えないところに行けば大丈夫なんじゃないか。そう思ってベビーベッドから見えない位置に移動する。

「はい。見えないよー。見えないところに行ったよー。安心だよー」と声をかけるが、まったく泣き止まない。アイツ、人の言うことを聞いてない。話し合いができない人種である。

それにしても、子どもが泣くと焦る。あんなにちっちゃいのに、ちょっとボリューム壊れてんじゃないのかってぐらい大声で泣く。「はーい。大丈夫大丈夫。すぐにお父さん帰ってくるから」となだめても聞きゃしない。もう、5分たったんじゃないかしらと不安になる。早く戻ってきてほしい。

こんな大声で泣き続けたら虐待とかで通報されないか。実に不安だ。パニックだ。育児ノイローゼになりました。早すぎる。

なんとかあやそうとするが、なにせ人の言うことを聞かない。前職の社長など、この子に比べればずいぶんマシだった。なにせ日本語が通じるからすごい。今、通じない人と向き合ってそのありがたみがわかった。

で、あのー、あれをやってみました。

「いないいないいない‥‥ばぁ!」

ドラマとかだと、ここで赤ちゃんは「キャッ!キャッ!キャッ!」と大喜びのはずなんだけど、実際は「うわあああああああん!うわああああああん!」で、こっちのいないいないを完全にかき消すほどの大声。聞いちゃいない。

あれー。これ鉄板ギャグのはずなんだけど、やつらにとって。流行語大賞じゃないのか。

これは実にまずい。焦る。

そもそも赤子の声というのは、耳障りにできている。そうやって親の注意を喚起するように進化してきたのであるとか、そんな知識はなんの解決ももたらさない。いないいないばぁ!も空振りし、万策尽きたかにみえて、一つひらめいた。

文章はわからなくても単語はわかるんじゃないのか。母親がミルクをやるときに「ミルク」とか「おっぱい」とか、そういう単語を言っているはずである。そういう単語を聞くとヤツも「お。ご飯どきですね。早くしたまえ!」となって、大人しくなるのではないか。そうやって時間を稼ぎ、Y氏が戻ってくるまで繋ぐのだ。

そんでベビーベッドの上で「ミルク!」とか「おっぱい!」と言ってみる。

あのー、全然聞いてくんない。「うわああああああ!」である。エイリアンだな、君は。オウムとのほうがまだ会話になる。

まず、こちらの言うことに注目させなければならない。「はーい!注目!」と言ってみたが、まあ無視ですよ。「はーい!見て!こっち見て!」とか何度やっても無駄。声に声をぶつけても駄目なんだな。なのでベビーベッドの上で、手をパンと鳴らしてみた。手を鳴らして「おっぱい!」「おっぱい!」とか叫んでみたがまるで聞いてくれない。かつてこれほど難しい仕事があっただろうか。

ふと気づくと、Y氏がすぐ後ろに立ってニヤニヤ笑ってた。

「あのー。どのへんから見てました?」

「お参りみたいに手を打って『おっぱい!おっぱい!』って叫んでるとこ。変な宗教みたいで怖かった!写メ撮ったけど見る?」

見ねーよ、バカ!さっさと助けろよ!と思いました。年上でなきゃ蹴ってる。今からでも蹴りに行きたい。行くべき。

で、Y氏が赤ちゃんを「おーよしよし」と抱きかかえた。泣き止むかと思いきや、身をよじって全身で嫌がる。ざまあみろ。役に立たない男二人で、あーでもないこーでもないと言っていたら、泣きつかれたのか勝手に眠ってしまった。

小さな王様である。王様はいつの時代も下々の言うことなど聞いちゃくれないね。