▼親戚来訪。
PCの購入について助言した。とくに性能を求めなきゃ、もうノートPCのほうがいいんだろうなあ。増設を必要とするような負荷のかかる作業もないのだろうし。
それはそれは偉そうにアドバイスし、調子に乗ったわたしだ。だが、昼時になぜかわたしの幼少の頃の話になった。昔、オムツを取り替えてやったとか、喋るのは早かったのにオムツが取れるのが遅かったとか、夜泣きがひどくてみんな迷惑したとか。
偉そうにしている小僧がおりましたら、幼少の頃の話をするに限ります。もう、ぐうの音も出ない。ええ、本当にもうその節は皆様にはご迷惑をおかけいたしました。もうその話はやめて。
東京六大学野球。連戦連敗の東大。そんな彼らをひたすら応援している学ラン姿の応援部。彼らに密着したドキュメンタリー。
そもそも応援部というものが存在するということを知らなかった。わたしが通った大学ではチアガールの練習風景を見かけることはあったものの、学ラン姿の応援部を見ることはなかった。わたしの頃ですら、そういった人種は絶滅危惧種だった。
早稲田戦、9回裏0対19、負けが決定的な状況で太鼓を叩き、声を張り上げる部員たち。野球部が勝てないのは応援部の応援が足りないからだという考え方。
厳しい練習やイベントの準備に忙殺され留年も覚悟しなければならない。
年功序列が絶対で、どんな不条理な命令にも逆らえない。体罰さえ日常的にある。
なによりもつらいのが、どんなに必死に応援してもほぼ勝つことのない報いの無さ。
とりわけ頭の良い東大生がなぜその理不尽ともいえる状況を受け容れているのかが不思議だった。まともに考えれば、野球部が弱いのは野球部のせいである。そんなことはわかっている。わかりきっているからこそ、その報いの無い状況に堪えるために、応援とはそもそもどういうことか、それぞれの答えを見つけようともがく。その答えが見つからなかった者、応援が自己満足ではないかという矛盾に耐えられなかった者、体罰もしくは体制になじめなかった者は応援部を去っていく。
著者が冒頭で応援部員に投げかける質問。
イチロー選手がマリナーズに移籍して渡米する前、日本の球場は鳴り物がうるさくて、観客も騒いで試合を見てくれないと嘆いていたことをあげ、応援そのものが自己満足ではないかと問う。
質問を受けた部員は、応援が自己満足であるという矛盾を解消するのは難しいと答える。
部員の多くが、自己満足であるということを肯定したくないためか、応援の意義を自己犠牲や自己実現、仲間との友情に見出していく。そうでもしないと、なぜこんなに苦労しているか納得できないのだろう。本当は自分のやっていることが無意味だと認めてしまったら、その空虚さに堪えられないのではないか。彼らの考え方は、起こらない奇跡をひたすら待ちわびる信者のように見えた。
応援が本当に選手に力を与えるものなのだろうか。実はそんなことは選手にはたいして影響しないのかもしれない。
もし影響したとしても、それは正しいことなのか。ゴルフやテニスのように競技者が力を出し切れる雰囲気を作るのが本当ではないか。応援によって選手が影響を受けるのはどうなのかという問題も出てくる。なにより、彼らがどれほど熱心に応援しようが東大は勝たないのだ。
もう、応援という行為は単なる自己満足でしかないということを認めてしまって、そこから踏み出せばいいのではないか。選手たちががんばってプレーしている姿にはどうしても惹きつけられるし、つい応援したくなってしまう。それは自然な心情だと思う。
著者は常に乾いた目線で応援部を観察し続ける。取材当初は応援部に対して批判的にすら見えた。しかし、やがてそれは好意的な筆致へと変化していく。それは、応援部の体制や応援についての考え方を受け容れたということじゃなくて、がんばっている彼ら自身を著者が応援したくなったのだろう。たしかにそのひたむきさには、心打たれるものがあった。
ただ、著者も応援というものが何かということについて本書で結論づけてはいない。それは、答えを避けたというよりも応援部員の数だけ答えが存在するということなのだろう。この本が面白いかといえば、正直それほどでもないと思う。だが、こういう人たちがいるということを知ることは無駄じゃないように思えた。