▼友人夫婦の娘ハルちゃんに会う。
小学校2年ぐらいなのに、ずいぶんしっかりしている。右手で頬杖をついて左手で髪を触りながら話す仕草が大人びて見える。話す話題も、クラスの友人の一部とどうも好みが合わないとか、小2なのにもう女っぽい。男の小さい頃は「子ども」にすぎないけど、女の小さい頃は「小さな女」なのだろうか。
帰りは家族揃って、駅の改札まで送ってくれた。別れの挨拶をして改札を通ると、後ろから大きな声で「ばいニャ~!」というハルちゃんの声が聞こえた。軽くうなづいて行こうとすると、改札のところまで駆け寄って来る。
「ばいニャ~、は?
返事のばいニャ~がないよ?」
え?やんの?30越えた男が「ばいニャ~!」とか言わないと駄目なの?人がみんな見てるのに?
「ば‥‥ばいニャ~‥‥」
「声が小さいっ!はいっ!ばいニャ~!」
「‥‥」
「せーのっ!ばいニャ~!」
「‥‥ばいニャ~!」
もう許してください。次から見送りは断る。
▼単に印象の話でしかないけど、男よりも女のほうがブログに夢(寝るときに見るほう)のことを書いているように思う。以前に男女何人かで飲んでいたとき、夢の話になった。その話をしたのは女だった。それについて「夢のことを話しても意味がない」と言ったのは男だった。
男のほうがより現実的なことに興味を示す傾向が強いのだろうか。具体的にいえば、仕事に直結するような話を好むというか。男のほうが数字や物の構造についての話が得意にみえるし、女のほうが抽象的なものに意味を見出す能力があるように思う。社会的な役割の差がもたらした結果なのだろうか。
夢というのは曖昧模糊としているから、女のほうがこの話を好むのかしら。
「夢のことを話しても意味がない」という言葉はちょっと面白い。この人には意味があるってことが重要なんだろうなあ。
そもそも意味があるものなんて、あるのだろうか。
星をみて何も思わない人もいれば、星を繋げて星座にする人もいる。花鳥風月が目に入らない人もいれば、それをみて詩を詠む人がいる。意味は「ある」というよりも、そこに意味を見出すことに価値があるんじゃないだろうか。「意味がない」というのは「意味を見つける能力がない」というか、残念だけど仕方がないことである。