玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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髪、切った? 地球にやさしい

▼「笑っていいとも」 で、タモリさんがゲストに「髪、切った?」と言うのを見かける。

あの「髪、切った?」と言うのが実に見事な距離感だと思う。私もよく使っている。

特別親しいわけでもない女の人と話すときに、その人が髪型を変えていたとして「かわいい」とか「似合っている」とかいうのは、ずいぶん馴れ馴れしい気がする。

かといって、髪型を変えているのに、そこに触れないのも相手にまったく関心がないようで悪い気がする。馴れ馴れしくしすぎない、さりとて無視するわけにもいかない、その感情の折衷案として採用されたのが「髪、切った?」なのです。

先日、その機会があり「髪、切った?」と尋ねたところ「切ってないよ」と言われた。

あれー?おかしいなー。あれー?

と、なってしまった。切ったか、切ってないか、そもそもわからないのである。

▼仕事の打ち合わせ。ある商品についてのものだった。

その商品のイメージとして担当者が頻りに強調していたのが「地球にやさしい」「自然保護」という言葉だった。

商品部分は、わたしの担当ではないのでそれこそボーっとしていた。ただ「地球にやさしい」とか「自然保護」という言葉を聞くたびに軽い違和感を覚え、ずっとその言葉をこねくり回していた。

「自然保護」と口にしたときに、人間はその自然に含まれるのでしょうか。

もし、人間も自然の一部と考えるなら何をやってもいいことになる。どれだけ自然を破壊しようが、生物を絶滅させようが、その人間の活動は自然の一部なのだから。

じゃあ、人間は自然の外側にいて、自然を保護すべきものかと考える。

絶滅危惧種を保護し、温暖化に備えCO2排出を規制する。それは、それで正しいのかもしれない。「人間」と「それ以外の生き物」という分け方はキリスト教的な考え方に通ずるようにみえる。

ただ、その自然保護が何のためかといえば人間のためである。

将来、子孫が困らないよう環境を保護しようとする。環境保護をしていれば、将来も自然の恩恵に与れるかもしれない。

そうすると、自然保護という言葉が意味するものは「将来にわたって自然の恵みを得続けることであり、そのためには自然を保護せざるをえない」ということである。

地球は人間がいなくても存在してきた。

人間は、地球なしでは生きていけない。そのくせ、増えすぎればその活動が地球に害になる。

それは、人体とガン細胞のようなもので、ガン細胞が「人間にやさしい!」「これからは人間に配慮した生活をおくろう!」と言い出せば、オマエ何言ってんだ、いい加減にしろとなる。

そうなると「地球にやさしい」という言葉も、何か虚しい。

虚しいのう。

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