玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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新年会

▼親に頼まれて、かりんとうを購入。ふだん甘い物を食べないので、どれを買ったらよいのかわからなかった。黒蜜かりんとうというのを買った。社名で購入を決めた。発売元が「東京カリント株式会社」である。

かりんとう以外売っていない会社である。もう、年中かりんとうのことしか考えていない社名である。かりんとうのためなら殺人をもいとわない人たちが作っています。

美味しかった。

▼新年会には、どこの国だか忘れたがヨーロッパ圏の人が来ており捕鯨について話していた。この人は捕鯨に反対らしかった。鯨は群れごとに言語があり、高度な意思疎通ができる賢い動物だし、なぜ殺すのかということだった。

なぜ鯨だけは殺すことに反対が起きるのだろうか。で、あるならば、そもそも殺していい動物とはなんなのだろう。頭の良くない動物、かわいくない動物はいくら殺してもいいのか。鯨は駄目だが、牛や豚や羊はいくらでも殺していいのだろうか。

そもそも殺してよいものなどいない。でも、殺さなければ生きてはいけない。殺すのが嫌なら自分が死ねばいいし、それはそれで正しい答えだと思う。ただ、死ぬのが嫌なら殺し続けて生き続けるだけだ。それについて罪を背負っていると口にするのは簡単だ。だが、本当に罪だと自覚しているのだろうか。罪だと自覚しつつ、殺し続けているのだろうか。それはどれぐらい本気で言っているのだろうか。

生き物を殺して食べることは自然の仕組みであり、罪ではないと思う。むしろ「罪」を自覚していること、反省していることを表現することで赦されようという姿勢が見える。赦されないだろう。殺された生き物から赦されるはずはない。何をしても。

でも赦すも赦さないもないのだろうなあ。昔は人間も死んだら自然に土に還った。その体を微生物が分解してというサイクルがあったけど、今は燃やしてしまう。サイクルから乖離している。「人間」と「それ以外の生物」というくくりで物を考えてるから、こういう赦す赦さないという考えも生まれてしまうのか。

せめてできるのは、殺してしまった生き物を残さずに食べる。捨てないこと。腐らせないこと。そんなことしかできない。それすら、殺されてしまった生き物たちにはどうでもいいことだろう。わたしが牛だとして、殺されて食べられたとする。綺麗に全部食べてくれようが腐らせて捨てられようがどちらでもいい。そもそも殺すなと思う。綺麗に全部食べましたというのも殺すほうの自己満足でしかない。でも、せめて出された料理は全部食べようと思う。それが殺す者の自分勝手な礼儀だろう。

どうも、このヨーロッパ人は捕鯨反対という意見をファッションとしてもっているようにしか見えない。それがときに環境保護になったり、男女差別反対になったりするのではないか。恐るべき軽さと鈍さ。僕もきっと何か別の分野では、こんな鈍感さを無意識にふりかざして生きているのだろう。そしてそんな僕を冷ややかに見ている人もいるだろう。