▼冬にはホットカーペットという魔物がいる。
と、いうわけでホットカーペットの上でウトウトしていたら午前5時になってしまった。
喉がカラカラである。
そうこうしている間に大晦日。
慌しいままに1年がくれていく。
年賀状を刷り、なにか一言書き添えねばと思いながら、なかなか書けずにいる。
▼映画「おくりびと」感想
2008年に随分話題になった邦画ですので、観た方も多いのでしょう。
2009年も暮れようかという頃ですが、ようやく観ました。
本木雅弘演じる納棺師についての作品である。
納棺師とは、死者を棺に納めるために必要な作業と関連商品の販売を行う職業人である。
wikipediaから引用。
具体的には、遺族の前で死者の体を拭く清拭を行い、口、鼻、肛門には体液が出ないよう脱脂綿を詰めたり、顔には化粧を施すなど、死者の旅立ちの準備をお手伝いする。
映画はとても良かった。
今年は親しい知り合いが亡くなり、どうしてもそのことが頭をよぎった。
これはもう映画の感想ではなくなってしまうのだけど。
わたしも実際に湯灌をしてもらうところに立ち会った。
体をお湯で洗ってもらい、映画のように旅立ちの衣装に着替えさせてもらう。
あと、何時間かすれば火葬してしまうのに、体を洗うだとか化粧をするだとか、そんなことに意味があるのかなと、やってもらう前には思っていた。
わたしは特に信仰を持っているわけでもないし、神様も信じていない。死んでしまえば、それで終わりだと思っている。
遺体をお湯で洗っていただき、体を拭いてもらった。
故人が入院していたこともあり、症状が重く風呂に入れなかったから「気持ちよさそうだね。よかったね」と遺族も満足した。
納棺師の方かわからないが、所作はとても綺麗で遺体を丁寧に扱ってもらっているのがよくわかった。
死んでしまったけれど、その体はやはりその人で、それをすごく尊重してもらっている。人間扱いしてもらっている。それがとても嬉しくて涙が出た。生前の彼を思い出していた。
死はごく自然なことで、生のすぐそばにある。
魂と体をわけて考える必要はなくて、もう意識は戻らないんだけれど、その体はやはりその人なんだ。
やがて僕も死んで、でもそれはごく自然なことで、悲しむべきことというよりも「お疲れ様」と声をかけてあげるようなことなのだと思った。
葬式にしろ納棺の儀式にしろ、本来は残された者の心の整理をするための儀式だと思う。
ただ、葬式というのは僕のような人間にはあまりに遠すぎる。
遠すぎるからなのか、理解もできない。
お坊さんがいらして、意味がわからないお経をあげてもらい、よくわからないまま焼香をし、よくわからないままに式が終わる。火葬し、戒名をつけてもらう。
やってることの意味が全体的にわからない。
そのお坊さんが故人や遺族と知り合いで、故人は生きている間はああだったこうだったと、そういう話ができるならいい。地方ではそういったことがあるのかもしれないけど、そうでなければ面識のないお坊さんに葬儀屋を通して頼むことになってしまう。
そうすると、本当に職業的にお経をあげていただくだけになってしまう。
それがなんだかすごく冷たいように感じていた。
親しい人が死んでしまうことはとても悲しい。
遺族には、その別れの辛さを受け入れる時間や気持ちを静める時間が必要に思う。
納棺師の方が遺族の心情に寄り添って、儀式をしてくれる時間がその時間になる。
納棺の作法というのは、それがきっちりとした型になることで、見る者にこの世とあの世の区切りを感じさせる。きっと葬儀にもその意味はあるのだろうけれど。
でも、それがマニュアルに沿っただけのものになれば、ただの冷たい式になる。
納棺師の方が型どおりに仕事をしながらも、遺体を尊重し、綺麗に旅立ちの準備をしてくれたとき、遺族も死の悲しみを受け入れる心の準備が整うのかもしれない。
映画の中で、吉行和子演じる銭湯の女主人が亡くなる。
儀式の際に主人公が、彼女が生前身につけていたスカーフを首にまいてあげるシーンがある。
遺族に寄り添うというのは、ああいう優しさなんだと思う。
映画は、悲しいだけじゃなくて、どこかユーモラスである。映画を包むその雰囲気がいい。
山崎努の「美味いんだな、困ったことに」や、笹野高史の「燃やすのが上手ですけぇ」というセリフは、ユーモラスな中にも、生きていくことの哀しさ・業のようなものを説いているのだろうか。
死については、ずっと考え続けていくことだけど、この作品では難しく扱うわけじゃなくてごく自然に、生のそばにあるものとして描かれているようでそれがとても良かった。