玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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書けたらいいよね 群集の中の不安

▼毎日書くと言ったわりに、もう書いてない。ほれ見たことかである。

「毎日書く」というか「毎日書けたらいいよね」ぐらいの気持ちで。

あ、挫折宣言ぽい。

思えば5年ほど前は、仕事をしつつ、ほぼ毎日日記をつけていた。

あの人はすごかった。そして、あの人は今。

無職です。

なんで書けないんだろう。よく寝ちゃったからかしら。10時間も寝ちゃったからかしら。

原因はなんとなく掴めたな。

ここまでの文章を1日分としてアップし、次からの文章を1日分として帳尻を合わせようかと考えた。わりと考えた。20分ほど。

そうまでして書くなよと思う。

▼午前は年賀状を作成し、午後に新宿へ。

人と待ち合わせをしていたが、なかなか来ず。

行き交う人を眺めるともなく眺める。

久しぶりの新宿駅は、年末ということもあるのか大混雑。

こんなにたくさんの人が、それぞれ何か目的をもって移動している。それぞれ、友人がいたり、恋人がいたりする。この圧倒的な量のそれぞれが、まったく別々の意思をもって生きている。それが何か怖いし、そこにいるととても疲れる。

膨大な意思の流れの中で、ぽつんと立ち竦んでいるような心細さを覚える。

なぜ人波は、とらえどころのない不安な気持ちを起こさせるのか。

近所の店で買い物をしたとき、顔見知りの店員に挨拶をする。当たり前だけど、このときの店員は「人」である。都会はあまりに人が多すぎるから、コンビニの店員や、すれ違う人にいちいち挨拶するわけにもいかない。だから無視をする。ここですれ違う人は群集で、群集は人というより「物」になる。駅の混雑での群集などは、障害物でしかない。

でも、僕らは、群集は人の集合であることを知っている。その群集の一人一人がどういう人かを知ることは時間的に不可能だけれども。群集の中で感じる不安とは、人を人扱いすることのできないストレスからなのだろうか。人を人扱いすることができないということは、その人々がどういう人かを理解することもできない。どんな危険な人が潜んでいるかわからない。

その恐れが、漠然たる不安感の理由なのだろうか。

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