玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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考える

▼友人夫婦の家にお邪魔。友人夫婦の子ター坊(小学校三年)と話す。ター坊の学校では今、怖い話ブームらしい。わたしにも怖い話をしてくれという。急に言われてもと困ったが、ちょっと前に友人Oから聞いた話を思い出した。

友人Oには以前付き合っていた女性がいた。ついこの前、その女性から会いたいという連絡があったという。もう一度やり直そうという話かもしれない。そう思いながら待ち合わせ場所の喫茶店に向かった。Oと彼女は付き合っていた頃のように楽しく談笑した。三十分ほど経った頃、彼女が「会わせたい人がいるので呼んでいい?」と訊く。不審に思いながらもOはうなづいた。

すると店内にいた二人の男がテーブルにやってくる。そこからですね、彼らが信仰している宗教がいかにすばらしいか、あなたも入るべきだという話を終電までみっちり聞かされたという。その話をター坊にした。ター坊は、口を半開きにしてポカーンとした顔をしていた。

ター坊は「そういうんじゃないの‥‥」と残念そうだった。他にも、35年の住宅ローンを組んでマイホームを購入後に離婚、広い我が家に一人だけとか、パチンコで月収の半分が一日でなくなりました!今月の昼は100円ショップのパンのみ、など各種の怖い話を取り揃えております。

需要がない。

▼あのー、考えるってどういうことなんですかね。ちょっと複雑なことを考えているときって、頭の中でそれを言葉にしていることが多い。

でも、体を使うときは違う。とっさの判断などは無意識にやっている。頭で全部考えると、ちょっと大変なことになりそう。「車がものすごいスピードでつっこんでくるね。ということは避けなければならない。急いで左足を出して、次に右足を出して、そしてまた左足を前に‥‥」そんなこと考えてたら死ぬ。

とっさの判断は考えずに無意識にやっている。これは脳の中でも、熟考する部分とは使う領域が違うということでしょうか。

考える話に戻りますが、複雑なことを考えるには言葉なしでは難しそうである。物事を思いついたとしても人に伝えるところまではいけなくて、なんとなく「ぽわ~ん」とイメージするぐらいでとどまりそうだ。抽象的な概念を頭の中で具体的な形に加工するには、言葉の発達が欠かせない。言葉という道具があって、はじめて熟考するということが可能になったのだろうか。

で、この熟考している状態なのだけど、頭の中で一人でしゃべっていることが多い。「しゃべる=考える」なのだろうか。答えが見つからないときに、人としゃべっていて答えが見つかるときがある。この「しゃべる」という方法が他者と会話するか、頭の中で出力するかの違いで、やっていることは実は同じなのだろうか。他に「読む」ということもあって、読むという行為も、読んだものを頭の中でしゃべっているように感じる。

ちょっととりとめのないことを書いてしまった。この日記はわりと、ぽわ~んと書いています。ぽわ~んと生きている人が書いています。ほっといてください。
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