玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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映画「コクリコ坂から」

コクリコ坂から
2011年 / 日本 / 監督:宮崎吾朗 / 青春・恋愛

【あらすじ】1963年の横浜。日本は高度経済成長期に入っている。翌年には東京オリンピックを控え、町は活気に溢れていた。高校の文化部部活棟「カルチェラタン」の保存活動を通じて知り合った風間俊と松崎海はお互いに惹かれあう。君たちはすぐお互いに惹かれあうからなー。油断ならん。

【感想】ネタばれしています。
文化部の部室が集まる「カルチェラタン」。埃にまみれ、蜘蛛の巣が張り、まさに魔窟のようだが学生たちの愛着はつまっている。そのカルチェラタンを学校側は取り壊そうとしていた。それに反対した学生たちは、生徒会長の水沼、新聞部の俊を中心として反対運動を行う。

学生たちが団結してカルチェラタンの清掃を行ったり、学生新聞を発行する。こういう舞台が違和感なく成立するのは、1960年代の安保闘争が行われた時代かもしれない。今、部活棟の取り壊しが行われようと、わたしなどは「取り壊しすか?あ、そうなんすかー?」と、他人事である。団結しない。

反対運動の集会で学生たちが肩を組んで歌いだすシーンは、まさに安保闘争の学生たちがインターナショナルを歌いだすシーンを彷彿とさせた。わたし、見てきたように言いますけど、生まれてなかった。ただ、ずいぶんと学生運動を意識させる作りになっている。宮崎駿は1941年生まれなので、ちょうど安保闘争の世代に青年時代を送っている。だから、こういった場面を入れたかったのかもしれない。

カルチェラタンの保存活動についてどう感じるかが、この映画を好きになるか分かれ目の一つだろう。反対集会での風間俊の言葉には力がある。
「新しいものばかりに飛びついて歴史を顧みない君たちに未来などあるか!」
たしかにそれはそうだと思うものの、カルチェラタンてそれほど保存する意義があるものかがよくわからない。そもそも3年で卒業しまっせ、と思う。新しいものに飛びつくのも愚かなら、かたくなに古いものにしがみつくのも問題である。危険ならば取り壊して新しいものを作り、そこでまた思い出を作ればよいと思う。ま、どっちでもいいんだよね。使えるなら残せばいいし、危険なら壊せばとしか思わない。

うーん、なんだかね、ここがこの映画に乗れるかどうかなのだろうなあ。わたし、群れて何かやるというのが異常なまでに嫌いだからなあ。もうカルチェラタンが好きで、何がなんでも保存したい!だから一人でもやるの!という人がいたら応援するけども。こういう感情ってわかってもらえないだろうなあ。どちらかといえば、わたしが少数派で頭おかしいひねくれ者だろうしなー。みんながカルチェラタンを保存するなら、わたしは壊しにいきたい。

ま、結果としてこの保存活動が実ってですね、決定権のある理事長も「よっしゃ!おまえらがんばったみたいだし、カルチェラタンは残したるわ!グワハハハ!」みたいなことになります。なーんだろう、それって。結局、大人の気分しだいかと思うと複雑である。

それは60年代の学生運動が結局は子どもの遊びでしかなかったという辛辣な皮肉なのだろうか。宮崎駿は怖い人だから、それぐらい痛烈な皮肉はこめそうである。学生たちの闘争に共感し、その真摯な情熱は良しとしてカルチェラタンを存続させるというご褒美を与えつつも、実はそれが大人の掌を出ていない、まるで釈迦の掌にいる孫悟空のようなものを感じさせた、といえば少し意地が悪い観方かもしれない。そもそもこの解釈がまったく明後日のほうに行っているということもある。

ただ「冷笑」とか「嘲笑」という感じは受けないんですよね。どちらかといえば、若い人を見守る優しさのようなものを感じるし、あの時代が持っていた真摯さ、情熱に対しての郷愁も感じる。



そんなひねくれた観方をしなくても、絵を眺めているだけでも十分に楽しい。今は見かけないオート三輪などの乗り物、丸っこい路線バス、活気ある商店街、家電製品。自分が生まれてないのだけど、懐かしい絵である。そして登場人物のまっすぐな言葉、自分で全部なんとかしてやろうという心意気に惹かれます。