▼友人A子と、猫の仕事について話した。
猫というのは、一昔前はネズミを取るという、仕事なのか趣味なのかよくわからないことをやっていた。「借りてきた猫のようにおとなしい」という慣用句も、ネズミを捕るために猫を借りた時代のことなのでしょう。
で、今現在、猫は無職である。しいていうなら、かわいい業務がある。かわいいのが仕事という、これで生活しているのはアイドルか猫ぐらいか。だがA子が言うには猫には使い道があって、仮病で学校を休みたいときには猫を抱っこして猫の体温を測ると、ちょうど学校を休めるぐらいの適温(37.5度ぐらい)になるという。
これは飼い主にとってはごく当たり前なのでしょうか。猫を飼っていた人は、こんな方法でずる休みをしていたのか。猫、わたしよりも役に立つ。
▼ちなみに体温計の目盛りが42度までしかないのは、42度以上になると人は生きていられないということらしいです。体を構成するタンパク質が凝固し、いくら冷やしても戻らなくなってしまうそうです。
でも、これも水銀の体温計の話なんですよねえ。今はデジタル式なのでしょうけど。時代の流れを感じる。もう少したつと「また、おじいさんの昔話が始まった‥‥」って言われる。怖い。
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葉っぱの一生(twitpic)
もう冬の終わりが見えてきたなあ。これを見て「自分を葉っぱにたとえると、今このあたりかなあ‥‥」なんて考えると、憂鬱な気分になれるよ!
なぜそんな嫌なことを言いますか。
▼キャイ~ンが本を出したらしく、その内容を取り上げているブログがありました。ウドさんの書いていたことが興味深かった。
キャイ~ンの過剰な愛情(てれびのスキマ)
以下、ウドさんの著書「天野く~ん!」からの引用です。
いつも思うのは、ある瞬間にあることを選択した時点で、もう一方を選択していないんだってことです。仕事として芸人を選択したことで、僕は農業を経験していない。お笑いをやりたいがために、実家の仕事である農業をしていないんですね。
何かを選択する=何かを経験するということは、常に何かを経験していないことだと思うわけです。
選択肢の両方を同時に選べないのが、人生においての永遠の、いかんともしがたい事柄で、もう一方を選んだらどうなったんだろうと想像はできるんですけど、実際に両方を経験することはできないという……いや、経験していないわけじゃないんですよ。経験しない経験をしているんです。
(略)
何かを選択するという経験をすることは、別の何かを選択するという経験をしないことですし。また別の見方をすれば、たくさんのことを経験したということは、たくさんのことを経験しないという経験をしていないわけですよ。
(略)
たくさん経験することなんて、べつに何もエラくない。たくさん経験することもたくさん経験しないことも、人生のポイントで選択を積み重ねた結果にすぎないんだと思うんです。
(略)
だからこそ、いまこの瞬間は必然なのかもしれないなって感じるのでしょうか。
引用終わり。
この本は読んでないのですが、読んでみたくなりました。
「得る」ということと「得ない」ということがあるとしたら、普通は「得る」ことに価値があると思ってしまう。でも、こういう考え方をするとそうではないのかもと思います。「得ない」ことで「得る」ものがある。また「得た」ことで失うものがある。
しかし、それをウドさんから言われるとは思わなかった。ウドさんは、テレビで観るとあんなだし。「天野く~ん!」って、いつも叫んでいるだけの人じゃなかった。
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