▼昼、以前の会社の元上司とご飯を食べた。彼は五十歳ぐらいで、高田純次を猫背にして痩せさせた感じの人である。
注文した料理が出てきて、少し味が薄かったので醤油をかけた。その様子を見て「女の子に料理作ってもらっても醤油かけんの?」と訊かれた。
「憶えていないんですが、たぶんかけてたと思います」
すると、眉間にてのひらを当て、さも驚いた口調で「たはー!わかってない!それはわかってないよ!」と嘆かれる。
聞けば彼は、結婚してから一度たりとも奥さんの料理に調味料をかけたことはないそうである。ところが、彼の息子さんは平気で醤油なりソースなりをドバドバかけるらしい。
「もうさあ、アイツ、頭おかしいんだと思うんだよね。なんでそんなことできるんだろう」
「でも、薄かったらやっぱりかけるんじゃないですか?」
「もうそんなこと怖くてできない。やっぱり結局は血だと思うんだよね。子どもってのは血が繋がってるし、親子だから安心してるところがある。こっちにしてみれば奥さんは他人だし、これからも他人になる可能性がある人だからね。あの人」
「え。他人になりそうなんですか?」
「‥‥ならないとはいえないねえ。そうならないように、ものすごく気遣って生きてるからね」
「でも、醤油かけられないって、つらくないですか?」
「おまえ‥‥もう、バカ!醤油なんかかけたら大変だよ。何言われるかわかんない。奥さんてのは、男が大事に大事に育てた心の花園を爆撃機で焼き払う人たちだからね」
「そんなおおげさな」
「わかってないなー!わかってない!人生の機微を全然わかってないね」
「でも味の好みって、たとえば赤が好きか青が好きかみたいな話ですよね。それは個人個人の好みだから、どっちが間違ってるとかそういう話じゃ――」
「あー、もう駄目だね!口から生まれて来ちゃったね!そういうことじゃないんだよ。それじゃイスラエルとパレスチナの間に平和は訪れないんだよ。そういう人間に政治家になってほしくないね」
「なりません」
そういったですね、大変勉強になるんだかならないんだかわからない話をしました。しかし、世のダンナさんはそんなに気を遣って生きているのだろうか。でも、醤油をかければ味の調整がきく料理はいいとして、味噌汁などはどちらの味覚に寄せて作られるのだろう。
その味がダンナさん寄りか奥さん寄りかで、どちらが家庭の主導権を握っているかわかるのかな。