玉川上水日記

このブログの内容はすべてフィクションです

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相性

▼また雪である。

今年はもう何度目なのだろうか。

「冬は寒ければ寒いほどよい」

そううそぶいてみたけれど、やはり寒いものは寒い。でも、寒いからこそ鍋が美味しい。

鍋にしようと決めたので、いつでも暇の友人N(メタボ)に連絡するも不在。

今日はなにがなんでも鍋である。初志貫徹、不惜身命、決めたことはやり抜きなさい。そう、おばあちゃんから教わったのだ。

鍋ではなくて、仕事とか勉強とか、そっちに不惜身命ってことかしら。よくわかりません。まあ、いずれにしろ一生懸命ってことはいいことですよ。

雑なまとめである。

もう一人の友人A子に電話をすると、案の定いる。いるんだよ、暇人は。

「いつでも暇って、ありがたいなあ」

「忙しいんだから、用ないなら切るけど」

またまた、忙しいフリなどして。ははは。

これだから、暇人というのは。ははは。滑稽な人だなあ。

▼すき焼きをつつきながら、A子の話を聞く。

直属の上司と相性が悪いらしく、大変そうである。

相性というのは不思議なものである。

どんなに能力が高い人同士でも、相性というのにはなかなか逆らえない。

その高い能力を、苦手な人とうまくやるというふうには使えないわけである。

好き嫌いというのは、いかんともしがたい。

小さい子どもというのはそれなりに誰とでも遊べるけど、高校生ぐらいになるとちょっともう難しい。

「アイツとは哲学が違うから、うまくいかん」というわけである。これが高じるのが怖い。終いには誰ともうまくいかなくなってしまうのか。もちろん、仕事などをうまくやるためのコミュニケーション能力は上がってくるとは思う。でも、それは表面的なもので、実は無理をしているだけかもしれない。本当のところで解決はしてないんだと思う。

歳を重ねるほど孤立し、100歳の老人は誰ともわかりあえない100年の孤独を抱えるのか。それとも、どこかである種の寛容さを獲得できるのだろうか。人にもよるのだろうけれど。

今、わたしが期待しているのは老いによる面倒くささである。老人の中にはすべてを許す寛容さがある人がいる。あれというのは努力したり悟ったりしたんじゃなくて、なんだかもういろいろ面倒くさくなってどうでもよくなったんじゃないかと睨んでいる。

その、どうでもいいや感が寛容さなんじゃないか。

わたくし、こう見えて「どうでもいいや」にかけては、なかなかのものをもっている。

どうでもよくなることにかけては、なかなかのものである。

将来的に、自分に期待しております。直近二十年ぐらいはあきらめているけど。

 

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