2016年の夏季オリンピックの開催地がブラジルのリオデジャネイロに決定した。今回、いつの間にか総会の開催地投票がはじまっており、朝起きてニュースで落選を知った。以前の東京オリンピックのときは生まれていないからわからないが、今回はあまりにもオリンピック開催への渇望が低かったように思う。国民への事前周知活動も不足していたのではないか。
今はオリンピックを待たなくても、各種目の世界大会が行われ、概ね日本選手がどの水準にあるかは把握できる。ケーブルテレビやインターネットのおかげで、あらゆる種目について調べたり鑑賞したりすることができる。だからオリンピックを見たとしても、想像の範囲内におさまるような気になるのだと思う。起こるであろうことを確認をするというか。そこに新鮮な驚きをあまり期待していない。
こう書くと東京オリンピック開催反対のようであるが、実のところ賛成でも反対でもなく、興味もそれほどなかった。オリンピックへの憧憬そのものがないのかもしれない。
昔はスポーツ選手が世界に出て戦える手段がなかった。だからこそ、人見絹枝、円谷幸吉、前畑秀子、そういった選手の活躍に一喜一憂し熱狂したのかもしれない。もう、日本人があの熱狂を取り戻すことはないかもしれない。などといえば見てきたようであるが、生まれていない。まだまだ生まれない。
さも見てきたように書きます。
ただ、やるのなら見たいとは思った。
テレビやネットで見ると、なんでも知った気にはなるが生の空気感というのはまったく違う。競技を生で観戦したときの昂揚感は独特のものがあるし、そういったテレビでは伝わらない削ぎ落とされたものを感じたい。その欠落した情報こそが大事なんだと思う。
とすれば、あの世界陸上の織田祐二を思い出すが、なぜか今年の織田祐二はまったくはしゃいでいなかった。あのテレビは、はしゃぐ織田祐二を観賞するものだと思っていたのに。
はしゃぐのことのない織田祐二。
そう、それこそが今の日本人を象徴しているものである。
東京オリンピック